通史(Ⅰ)創立以前

古来日本人は山と深く関わってきた。採取や狩猟あるいは山岳信仰の対象と見なされて生活に密着していた。それ故、特定の山にこだわってその山容を描かれることはなかった。

江戸時代後期1812年(文化9年)になって日本の南画家、谷文晁が「日本名山図絵」をあらわした。老中松平定信の相模視察に随伴し、その後全国をめぐり日本の代表的山岳89座の風景画を描いている。(註1)

明治にはいって1894年(明治27年)に志賀重昂(しげたか)が「日本風景論」を刊行する。日本の風景の特質を地理学、自然科学的に説明しその風景を総合的に讃えた書物であった。大変な人気となり初版から16版まで重版しベストセラーになる。毎版異なる表紙絵を樋畑雪湖が、挿絵を海老名明四が描いている。志賀は登山とは登山そのものを楽しむ文化的行為、思想だと唱えた。

この頃ガウランド、アトキンス、ウエストンらが来日し日本アルプスをあしかけ7年で登山し多くの山頂をきわめている。それらの記録がイギリスで発表される。後日、山岳会(のちに日本山岳会と改称)を立ち上げる小島烏水は岡野金次と共にウエストンを訪ね交流を重ね日本にも山岳会を作ることを促される。そして近代登山熱が社会的に醸成されてくる。

1905年(明治38年)小島烏水、高頭仁衛門、武田久吉らのよって山岳会が創設される。

記録によると創立当初より多くの画人が会員に名を連ねている。後に日本山岳画協会を創立させる、丸山晩霞(会員番号130)、中村清太郎(150)、茨木猪之吉(262)、武井真澄(300)、石井鶴三(709)、らは山行はもとより会務にもたずさわっている。さらに山に登らない画家達も在籍していた。高島北海、大下藤次郎、  (註2) (以下別記)らが記録にある。日本山岳会は登山を含めあらゆる文化、芸術、博物学をも包含する団体として発足していた。官展にも山の絵を出品する作家があらわれはじめる。

1918年(大正7年)には山岳画展覧会を実施して230点を展観している。すでに山の絵を描く人達が広がりをみせていた。

1933年(昭和8年)上高地まで自動車道が開通し山岳が大衆の目線までさらに身近な物になってくる。

日本山岳会創立の発起人だった小島烏水は美術への造詣が深く画家達との深い交流があった。

日本山岳画協会が立ち上がる以前から後に当協会の発起人になる画人達とも交流している。東京、杉並、阿佐ヶ谷に小島や中村の自宅があった。武井が目黒、茨木が品川と近く、相互に行き来していた記録が残っている。武井は日本山岳会の会章図案を制作している。また小島烏水は武井の作品を自著のなかに多く登用している。小島は「日本アルプス」全四巻の冒頭、「自然描写の芸術」の中で風景画と山岳画の違いを述べている。山岳画への期待は大きく、やがて立ち上がる日本山岳画協会の顧問就任へとつながるのである。

こうした中で1963年(昭和11年)日本山岳画協会が結成されるのである。

(註1)これらの作品は山の文芸誌「アルプ」の毎号の裏表紙に連載紹介されている。

(註2)石崎光瑤、平福百穂、吉岡華堂、竹内栖鳳、岡田秀嶺、高瀬春暁、富田渓仙、山元春挙、寺崎広業、玉井敬泉。

通史(Ⅱ)創立前夜

大正期から昭和にかけていよいよ登山が大衆化してくると山岳文化が形成されるようになる。そのころから中村清太郎を中心に山岳画の会というのが生まれていた。足立源一郎が「山岳画は山岳に対して最も敬虔なる心をもった岳人によってのみ描かれる」と山の風景画と山岳画との違いを発言し、石井鶴三も「山の絵に傑れたるものを見ることが少ない。山の形を描く人はあってもよく山其ものを描く人は極めて少ない」といっている。山岳画よ立ち上がれ、の機運が高まっていた。

創立1936年、昭和11年。その前年の昭和10年の秋、当時、山岳書を多く出版していた梓書房の社長、岡茂雄の談(註1)によると「(前略)茨木さんが私の仕事場に訪ねてきた折に《山ばかり描いていても中央の画檀と縁が薄くなった人達とのクラブを創りませんか。日本山岳会あたりは、当然尻おしをしてくれるでしょう。》と示唆したのであった。茨木さんは《うん、やってみるか》と答えた。それからすぐに中村清太郎さん達と話合ったのでしょう、(後略)」。そして石井鶴三の日記によると11月29日午後山岳画の会が集う、とある。茨木猪之吉の呼びかけに皆が集まる。さらに茨木自身の談によると、丸山晩霞、吉田博の両重鎮の入会を誘うに際し「日本山岳画協会の結成に乗り出し同志と下相談が決定し私が交渉委員となり、ある日神明町のお宅を訪問し応接間で大体の趣旨とメンバーを示し快く承諾してくださった。「一・二回で解散なんて下手な事の無いように」とくれぐれと申された。そして吉田さんの処へ連絡をして交渉してくれた。しかるにこの時は要用多いので他日にとのことで、私は玄関を辞した。」と残している。1936年(昭和11年)丸山晩霞70才、吉田博60才であったが入会を招聘したのは山岳画のパイオニアとしての敬意と後進に与える影響を考えてのことだった。

斯くして若手、中堅10名に丸山、吉田が加わり12名、顧問に小島烏水、藤木九三を迎えて、日本山岳画協会が創立された。1936年、昭和11年1月、丸の内マーブルの地下食堂で発会式をあげる。事務所を茨木猪之吉が引き受けている。日本山岳会「会報」55号に中村清太郎が声明文を発表する(註2)(註3)。そして早くも同年7月13日~17日に日本橋髙島屋で第1回展を開催した。

(註Ⅰ)「アルプ」253号P39「山の画人茨木(猪之吉)さんのことなど」

(註2)要約-「好んで山を描く画家の集団でありまして、今迄夫れ夫れその道に精進していた人々を横に連ねて、お互いに親しみを増し、作画にも発表にも便宜を加へ、鑑賞や研鑽の機を多くしようというようなわけであります。」「山岳を崇敬愛好する」「ここにいう山岳画とはその題材を山頂とか山中とか狭く限定する様なものではなく遠望も山麓も、その他溪谷、湖沼、草木、禽獣等の山に属するものは因より、天象、人生、神話伝説の類まで山に関する限りは現実非現実に拘わらず包含されて然るべきものと考えられます

(註3)全文は 創立について 日本山岳会会報55号記事

通史(Ⅲ)創立後

1936年(昭和11年)日本山岳会の画人達が中心になって日本山岳画協会が創立されます。創立会員は足立源一郎、中村清太郎、茨木猪之吉、石井鶴三、石川滋彦、丸山(ばん)(か)、武井真澄(しんちょう)、吉田博、小菅徳二、染木(あつし)、末光(いさお)、内野猛。の12名。顧問に小島(う)(すい)、藤木九三(くぞう)を迎えます。

早くもその年7月13日~17日に日本橋髙島屋で第1回展を開催します。そして秋には足立、茨木、中村、石井で木曽から野麦峠へ長期にわたって写生旅行をしています。

その頃、山岳画とはなにか、と言う命題がくすぶり続けます。

足立源一郎は同年出版された「山岳講座」(註1)の中で山の風景画と山岳画とを論じている。

「山岳画は山に対して最も敬虔なる心を持つ岳人によってのみ描かれる」と断言する。

また中村清太郎は「崇め,尊み,拝する」山岳の「美を讃え、その神を伝え、その徳を宣べんとするのが自分の仕事の目途」(註2)と語る。

「画家が山を知らないことが満足させる絵ができない」(註3)

石井鶴三が「絵は上手いが、山が浅い」と語り(註4)

「山に登らなくても、すぐれた山の絵は描ける」という論客の発言もあります。(註5)

小島烏水は「山の現場で描いていない。風景を写し取っているだけだ」と発言しています。

足立源一郎は山岳画を山岳風景画と区別し狭義に解釈して「山の真を語り山岳の霊気」を伝えようと奮闘します。

そのような中、戦争の足音が聞こえるころ、中村善策、上田哲農、河越虎之進、山川勇一郎などが入会してきます。

山の絵画は人が山に登るところから始まる。山とのかかわりの度合いによって感動もそれぞれ。山に登り山をよく知っている人でなければ山岳画は描けないのか?決して登山家ではないと思う画家達のすぐれた山の絵も時として高い評価をうけている。穂高が山岳画で富士山は風景画か?という問題は中々むずかしい。

こうした論争のなか、太平洋戦争が勃発します。それでも画人たちは描き続けます。

そして1944年(昭和19年)大戦の最中、協会の牽引役だった茨木猪之吉が穂高涸沢で紅葉を描きに入山し、飛騨へ下山する途中、白出沢で消息を絶ちます。

協会は休眠状態になります。

再発足まで5年待たねばなりません。

(註1)「山岳講座」第五巻 共立社 昭和11年3月発行

(註2)日本山岳会 会報85号「吾が山岳画道」

(註3)会報67号

(註4)会報107号

(註5)会報108号

通史(Ⅳ)再発足

1945年(昭和20年)終戦となるも山岳画協会会員はそれぞれの生活、活動に混乱します。

しかし1949年(昭和24年)山川勇一郎が中心となって、創立会員5名、戦時中に入会していた4名、新しいメンバー6名を加え合計15名で満を持して再発足します。(註1)

全国の百貨店で展覧会を毎年開催していきます。それぞれの画家達がそれぞれに縁のある百貨店の会場を紹介し合って開催は途絶えることなく続いていきます。そんな中、石井鶴三が日本芸術院会員に推挙されます。1956年(昭和31年)までには新規入会者が順次21名増えていきます。その中には後に文化勲章を受章する田崎広助、伊藤清永はじめ文化功労者となる井出宣通、高田誠、田村一男も名を連ねています。

しかし1965年(昭和40年)山川勇一郎がアンデスで遭難死します。

昭和30~40年代は在籍会員が40名に上り協会として最も在籍会員の多かった時期です。

別項で昭和35年の会員名簿を掲載していますが(註2)、そこにはそれぞれの所属画檀の大家と言われる画家達が錚々と名を連ねています。これは当協会が山岳画を標榜し、属を拒まず画檀横断の姿勢を貫いていたからです。この時代の幹事だった三輪孝の業績だったとおもわれます。

1974年(昭和49年)から新宿のギャルリ・アルカンシェルに会場を移します。ここは美術評論家で日本大学芸術学部教授の宮川謙一氏の管理運営し、画廊としてレベルが高くいつも評論家仲間で賑わう会場でした。

このころは代表幹事が足立眞一郎、そして藤江幾太郎への過渡期でした。

(註1)再発足会員。足立源一郎(再発足時年齢60才)、石川滋彦(40)、石井鶴三(61)、中村清太郎 (61)、吉田博(73)、中村善策(48)、山川勇一郎(40)、上田哲農(38)、河越虎之進(58)、加藤水城(39)、宮坂勝(54)、山下品蔵(50)、春日部たすく(46)、奥田郁太郎(37)、高田誠(36)

(註2)別項 昭和35年(1960)会員名簿

通史(Ⅴ)至宝の画人

1966年(昭和41年)より代表幹事が足立眞一郎になります。

すでに会員数が38名に増えておりましたが、前年に山川勇一郎がアンデスで遭難死亡事故をおこし協会は動揺します。

その後昭和44年に井出宣通と中村善策が日本芸術員会員に推挙されます。

さらに昭和48年には田崎広助が文化勲章を受章します。その後も受賞会員が輩出していきます。(註1)

昭和49年に小堀進が日本芸術員会員になります。その頃から少しづつ協会会員が減少してゆきます。それぞれの画家達の年譜を調べて見ると協会入会から各賞受賞までの在籍期間は正に画家の一番油の乗っていた時期でした。そうした期間に日本山岳画協会でともに展覧会を共有していたことは当協会の至福の時間だったと考えます。その期間を協会運営した足立眞一郎は自身、日展、光風会で活躍していた画人であったのですが協会会員の減少を止められなかったのは無理からぬことでした。

大家となった画家達がそれぞれの所属画壇での活動に専念するようになり協会から去りはじめるようになる頃、1979年(昭和54年)代表幹事が藤江幾太郎に引き継がれます。すでに会員は21名に半減しています。

足立眞一郎の時代から始まっていた会員勉強会としての写生旅行教室を企画継続します。第1回は栂池、第2回を崖の湯、第3回を松原湖と続けてゆきます。

当時を知る会員によると(勉強会は実に厳しいものだった。講師には田村一男、江藤純平、春日部たすく氏が名を連ねていた。会員の作品には容赦の無い指導があった。この頃の総会では入会希望者の審査が厳しく何年も待たされる画人が少なくなかった)と語っています。

藤江幾太郎は白日会委員を務めながら大判画文集4冊を上梓しマスコミ、雑誌で時代の寵児になりますが、協会運営には深く関わり続けてゆきます。

実はそれまで当協会の創立当時と戦後しばらくの記録、経緯が不明でした。不明のまま大戦を挟んで50年近く協会は活動を続けていました。藤江はそれを調べ、堀りおこしたのです。美術研究所(現、東京文化財研究所)の美術年鑑の中から昭和12年発行分を見つけ出します。それにより日本山岳画協会創立は1936年(昭和11年)そして創立会員の氏名が特定されたのです。

この発見でその年がちょうど創立49周年の年であることが判明し、翌年(創立50周年)の協会初の会誌を発行することになりました。

また大町山岳博物館での5年周期の展覧会も実現させ、今日まで継続しています。

藤江はこの功績を残して関戸紹作代表幹事へとバトンタッチします。時代は平成へと移っていきます。

(註1)別項で受賞者一覧を掲載(生年、協会入会年、受賞年、逝去年)

通史(Ⅵ)中興

代表幹事が関戸紹作に変わり平成の時代になります。かつて在籍していた元会員達6名が(註1)さらに日本芸術院会員になります。山岳画協会としては送り出したと解釈して拍手をおくります。かつて同じ会場の展覧会で作品を並べて展示した同胞の受賞は感無量です。

1996年(平成8年)協会は創立60周年を迎えます。しかし会員数は18名になっていました。

立派な60周年記念誌を上梓します。

平成14年牧潤一が代表幹事になります。牧は会員を少しずつ増やそうと奔走します。牧は雑誌やマスコミ界に精力的に露出して日本山岳画協会の名を広めていきます。また牧の時代からアウトドアー企業のモンベルが会場を提供してくれることになり、山岳画集団の当協会に力をいただけるようになり現在まで続いています。しかし牧は体調を崩して引退します。

会員は13名になっていました。

平成19年武井清が代表幹事に就任します。やがて中興の祖となる武井は総会で①協会の作品のレベルを上げる。②協会員を増やす。③協会の知名度を上げる。と宣言して登場します。すでに76才でした。内外の山岳美を紹介する作品。我が国の画檀に異色の一角を形成する集団を標榜しました。作品の合評会の席上ではいつも積極的に発言しました。会員増員新人発掘に東奔西走します。展覧会は26年間続いた千代田区の朝日アートギャラリーから有楽町、東京交通会館に会場を移していました。また武井の時代から記念誌を5年周期にあらためハードカバーのカラー画文集としました。自身も登山、スキーの現役ぶりを体現してみせました。

80才を過ぎても他の会員に負けない元気ぶりで中興の祖となりました。

2016年(平成28年)その年長野県の丸山晩霞(創立会員)記念館、と安曇野山岳美術館での2カ所の日本山岳画協会展が実現し忙しい年になります。これらの山岳画と縁の深い施設との縁はその後も続いてゆきます。

そして武井は高齢を理由に勇退し後継を江村眞一にゆずります。

江村は2020年(令和2年)当協会創立以来最大の展覧会を実現させます。北アルプス展望美術館で3ヶ月間100号の作品が60点展示する入場有料の展覧会でした。しかも大町山岳博物館と同時開催という離れ業のような差配を指揮します。時に新型コロナウイルスの発症期と重なり一時閉館されるなど手探り状態のなかの開催となりました。

そして2022年次なる代表幹事の時代へと移っていきます。

2023年で日本山岳画協会は87年を迎えます。

創立90周年記念展は目前となりました。

(註1)楢原健三(昭和63年受賞)、井出宣通(平成2年)、伊藤清永(H3)、佐竹徳(H3)、田村一男(H4)藤本東一良(H5)