通史(Ⅲ)創立後

1936年(昭和11年)日本山岳会の画人達が中心になって日本山岳画協会が創立されます。創立会員は足立源一郎、中村清太郎、茨木猪之吉、石井鶴三、石川滋彦、丸山(ばん)(か)、武井真澄(しんちょう)、吉田博、小菅徳二、染木(あつし)、末光(いさお)、内野猛。の12名。顧問に小島(う)(すい)、藤木九三(くぞう)を迎えます。

早くもその年7月13日~17日に日本橋髙島屋で第1回展を開催します。そして秋には足立、茨木、中村、石井で木曽から野麦峠へ長期にわたって写生旅行をしています。

その頃、山岳画とはなにか、と言う命題がくすぶり続けます。

足立源一郎は同年出版された「山岳講座」(註1)の中で山の風景画と山岳画とを論じている。

「山岳画は山に対して最も敬虔なる心を持つ岳人によってのみ描かれる」と断言する。

また中村清太郎は「崇め,尊み,拝する」山岳の「美を讃え、その神を伝え、その徳を宣べんとするのが自分の仕事の目途」(註2)と語る。

「画家が山を知らないことが満足させる絵ができない」(註3)

石井鶴三が「絵は上手いが、山が浅い」と語り(註4)

「山に登らなくても、すぐれた山の絵は描ける」という論客の発言もあります。(註5)

小島烏水は「山の現場で描いていない。風景を写し取っているだけだ」と発言しています。

足立源一郎は山岳画を山岳風景画と区別し狭義に解釈して「山の真を語り山岳の霊気」を伝えようと奮闘します。

そのような中、戦争の足音が聞こえるころ、中村善策、上田哲農、河越虎之進、山川勇一郎などが入会してきます。

山の絵画は人が山に登るところから始まる。山とのかかわりの度合いによって感動もそれぞれ。山に登り山をよく知っている人でなければ山岳画は描けないのか?決して登山家ではないと思う画家達のすぐれた山の絵も時として高い評価をうけている。穂高が山岳画で富士山は風景画か?という問題は中々むずかしい。

こうした論争のなか、太平洋戦争が勃発します。それでも画人たちは描き続けます。

そして1944年(昭和19年)大戦の最中、協会の牽引役だった茨木猪之吉が穂高涸沢で紅葉を描きに入山し、飛騨へ下山する途中、白出沢で消息を絶ちます。

協会は休眠状態になります。

再発足まで5年待たねばなりません。

(註1)「山岳講座」第五巻 共立社 昭和11年3月発行

(註2)日本山岳会 会報85号「吾が山岳画道」

(註3)会報67号

(註4)会報107号

(註5)会報108号