通史(Ⅳ)再発足

1945年(昭和20年)終戦となるも山岳画協会会員はそれぞれの生活、活動に混乱します。

しかし1949年(昭和24年)山川勇一郎が中心となって、創立会員5名、戦時中に入会していた4名、新しいメンバー6名を加え合計15名で満を持して再発足します。(註1)

全国の百貨店で展覧会を毎年開催していきます。それぞれの画家達がそれぞれに縁のある百貨店の会場を紹介し合って開催は途絶えることなく続いていきます。そんな中、石井鶴三が日本芸術院会員に推挙されます。1956年(昭和31年)までには新規入会者が順次21名増えていきます。その中には後に文化勲章を受章する田崎広助、伊藤清永はじめ文化功労者となる井出宣通、高田誠、田村一男も名を連ねています。

しかし1965年(昭和40年)山川勇一郎がアンデスで遭難死します。

昭和30~40年代は在籍会員が40名に上り協会として最も在籍会員の多かった時期です。

別項で昭和35年の会員名簿を掲載していますが(註2)、そこにはそれぞれの所属画檀の大家と言われる画家達が錚々と名を連ねています。これは当協会が山岳画を標榜し、属を拒まず画檀横断の姿勢を貫いていたからです。この時代の幹事だった三輪孝の業績だったとおもわれます。

1974年(昭和49年)から新宿のギャルリ・アルカンシェルに会場を移します。ここは美術評論家で日本大学芸術学部教授の宮川謙一氏の管理運営し、画廊としてレベルが高くいつも評論家仲間で賑わう会場でした。

このころは代表幹事が足立眞一郎、そして藤江幾太郎への過渡期でした。

(註1)再発足会員。足立源一郎(再発足時年齢60才)、石川滋彦(40)、石井鶴三(61)、中村清太郎 (61)、吉田博(73)、中村善策(48)、山川勇一郎(40)、上田哲農(38)、河越虎之進(58)、加藤水城(39)、宮坂勝(54)、山下品蔵(50)、春日部たすく(46)、奥田郁太郎(37)、高田誠(36)

(註2)別項 昭和35年(1960)会員名簿