大正期から昭和にかけていよいよ登山が大衆化してくると山岳文化が形成されるようになる。そのころから中村清太郎を中心に山岳画の会というのが生まれていた。足立源一郎が「山岳画は山岳に対して最も敬虔なる心をもった岳人によってのみ描かれる」と山の風景画と山岳画との違いを発言し、石井鶴三も「山の絵に傑れたるものを見ることが少ない。山の形を描く人はあってもよく山其ものを描く人は極めて少ない」といっている。山岳画よ立ち上がれ、の機運が高まっていた。
創立1936年、昭和11年。その前年の昭和10年の秋、当時、山岳書を多く出版していた梓書房の社長、岡茂雄の談(註1)によると「(前略)茨木さんが私の仕事場に訪ねてきた折に《山ばかり描いていても中央の画檀と縁が薄くなった人達とのクラブを創りませんか。日本山岳会あたりは、当然尻おしをしてくれるでしょう。》と示唆したのであった。茨木さんは《うん、やってみるか》と答えた。それからすぐに中村清太郎さん達と話合ったのでしょう、(後略)」。そして石井鶴三の日記によると11月29日午後山岳画の会が集う、とある。茨木猪之吉の呼びかけに皆が集まる。さらに茨木自身の談によると、丸山晩霞、吉田博の両重鎮の入会を誘うに際し「日本山岳画協会の結成に乗り出し同志と下相談が決定し私が交渉委員となり、ある日神明町のお宅を訪問し応接間で大体の趣旨とメンバーを示し快く承諾してくださった。「一・二回で解散なんて下手な事の無いように」とくれぐれと申された。そして吉田さんの処へ連絡をして交渉してくれた。しかるにこの時は要用多いので他日にとのことで、私は玄関を辞した。」と残している。1936年(昭和11年)丸山晩霞70才、吉田博60才であったが入会を招聘したのは山岳画のパイオニアとしての敬意と後進に与える影響を考えてのことだった。
斯くして若手、中堅10名に丸山、吉田が加わり12名、顧問に小島烏水、藤木九三を迎えて、日本山岳画協会が創立された。1936年、昭和11年1月、丸の内マーブルの地下食堂で発会式をあげる。事務所を茨木猪之吉が引き受けている。日本山岳会「会報」55号に中村清太郎が声明文を発表する(註2)(註3)。そして早くも同年7月13日~17日に日本橋髙島屋で第1回展を開催した。
(註Ⅰ)「アルプ」253号P39「山の画人茨木(猪之吉)さんのことなど」
(註2)要約-「好んで山を描く画家の集団でありまして、今迄夫れ夫れその道に精進していた人々を横に連ねて、お互いに親しみを増し、作画にも発表にも便宜を加へ、鑑賞や研鑽の機を多くしようというようなわけであります。」「山岳を崇敬愛好する」「ここにいう山岳画とはその題材を山頂とか山中とか狭く限定する様なものではなく遠望も山麓も、その他溪谷、湖沼、草木、禽獣等の山に属するものは因より、天象、人生、神話伝説の類まで山に関する限りは現実非現実に拘わらず包含されて然るべきものと考えられます
(註3)全文は 創立について 日本山岳会会報55号記事