通史(Ⅴ)至宝の画人

1966年(昭和41年)より代表幹事が足立眞一郎になります。

すでに会員数が38名に増えておりましたが、前年に山川勇一郎がアンデスで遭難死亡事故をおこし協会は動揺します。

その後昭和44年に井出宣通と中村善策が日本芸術員会員に推挙されます。

さらに昭和48年には田崎広助が文化勲章を受章します。その後も受賞会員が輩出していきます。(註1)

昭和49年に小堀進が日本芸術員会員になります。その頃から少しづつ協会会員が減少してゆきます。それぞれの画家達の年譜を調べて見ると協会入会から各賞受賞までの在籍期間は正に画家の一番油の乗っていた時期でした。そうした期間に日本山岳画協会でともに展覧会を共有していたことは当協会の至福の時間だったと考えます。その期間を協会運営した足立眞一郎は自身、日展、光風会で活躍していた画人であったのですが協会会員の減少を止められなかったのは無理からぬことでした。

大家となった画家達がそれぞれの所属画壇での活動に専念するようになり協会から去りはじめるようになる頃、1979年(昭和54年)代表幹事が藤江幾太郎に引き継がれます。すでに会員は21名に半減しています。

足立眞一郎の時代から始まっていた会員勉強会としての写生旅行教室を企画継続します。第1回は栂池、第2回を崖の湯、第3回を松原湖と続けてゆきます。

当時を知る会員によると(勉強会は実に厳しいものだった。講師には田村一男、江藤純平、春日部たすく氏が名を連ねていた。会員の作品には容赦の無い指導があった。この頃の総会では入会希望者の審査が厳しく何年も待たされる画人が少なくなかった)と語っています。

藤江幾太郎は白日会委員を務めながら大判画文集4冊を上梓しマスコミ、雑誌で時代の寵児になりますが、協会運営には深く関わり続けてゆきます。

実はそれまで当協会の創立当時と戦後しばらくの記録、経緯が不明でした。不明のまま大戦を挟んで50年近く協会は活動を続けていました。藤江はそれを調べ、堀りおこしたのです。美術研究所(現、東京文化財研究所)の美術年鑑の中から昭和12年発行分を見つけ出します。それにより日本山岳画協会創立は1936年(昭和11年)そして創立会員の氏名が特定されたのです。

この発見でその年がちょうど創立49周年の年であることが判明し、翌年(創立50周年)の協会初の会誌を発行することになりました。

また大町山岳博物館での5年周期の展覧会も実現させ、今日まで継続しています。

藤江はこの功績を残して関戸紹作代表幹事へとバトンタッチします。時代は平成へと移っていきます。

(註1)別項で受賞者一覧を掲載(生年、協会入会年、受賞年、逝去年)